周杰倫 杰倫な生活@上海 周杰倫物語 その4 高い壁

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周杰倫物語 その4 高い壁 

周杰倫物語 その1 その2 その3

第4部。

ある時、自分としては満足な作品を手に吴宗憲のチェックを受けに行った周杰倫
その原稿はくしゃくしゃに丸められ、近くのゴミ箱の中に...
この光景を見ていた周杰倫は、踵を返して部屋に引き返した。涙をこらえることはできなかった。

だがこの負けず嫌いの若者はわかっていた。投げ出すのは自分の首を絞めることを意味する。
彼はひたすら作曲を続けた。毎日一曲のスピードで連続7日。
吴宗憲が8時に出勤すると、いつでも周杰倫の作品が見られる状態で置いてあった。
とうとう彼は周杰倫の才能と真面目さに打たれ、彼の曲を歌ってくれる歌手を探し始めた。

1998年2月、周杰倫は"眼泪知道"という曲を作った。
吴宗憲はこの曲を当時天王級だった劉華に推薦した。だが、劉華は歌詞を見て首を振った。
"涙が何を知るって言うんだ?"
...劉華にこの曲を歌ってもらうという試みは失敗に終わった。

この後、周杰倫は爆発的人気を誇った張惠妹のために曲を作った ― "双截棍"である。
彼女は前衛的で周杰倫の曲は受け入れられると思われたが、彼女はきっぱりと拒絶した。

何度も何度も拒否されて、周杰倫は途方に暮れてしまった。
自分の音楽の道はなんて険しいものなのだろうか...

周杰倫がひどくダメージを受けているその時、吴宗憲はある考えを胸に抱いていた。
長い間音楽制作に携わってきた彼は、周杰倫の音楽への解釈はユニークだと評価していたのだ。
"この若者に別のチャンスを与えよう...自分で舞台に立ち、自分の曲を歌わせるんだ"

1999年12月のある日、吴宗憲は周杰倫を自分のオフィスに呼び出すと重々しく言った。
"阿倫、お前に10日やるよ。その間にもし50曲作ることができて、なおかつその中の10曲が
俺の選べるレベルに達していたら、会社としてお前のアルバムを出そう"

周杰倫はこれを聞くと言葉を失い、ただ"うん"とだけ答えてうつむきながら部屋を出ていった。

                    <その5 "Jay 杰倫"に続く>

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